月姫 -白夜の月紅-
Episode05「紅白の酒豪」
シエルの本当の姿を目の当たりにした志貴は、動揺の色が隠せないでいた。困惑を抱えたまま、彼は遠野家へと帰宅した。
「おかえりなさいませ、志貴様・・どうしたのですか?疲れている様子ですが・・?」
玄関に出迎えてきた翡翠が、志貴の異変に眉をひそめる。志貴は肩で息をしている様子だった。
「大丈夫だよ、翡翠・・少し休めば・・」
「だから1人でムリをしてはいけないとあれほど言ったではないですか・・」
志貴の言い分に翡翠が半ば呆れる。そして彼女は彼を支え、部屋へと導いた。
「それではしばらくお休みください。昼食の時間になりましたら、起こしに参りますので・・それでは失礼します。」
ベットの上に腰を下ろした志貴に一礼すると、翡翠は部屋を後にした。彼女が立ち去ると、志貴はベットで横になる。
(不死の呪い・・死ねない体・・・シエル先輩が、そんな・・・)
志貴はシエルのことを気がかりにしていた。様々な戒めを背負いながら、彼女は血塗られた運命と戦いに身を投じている。
彼女のために何かしてあげたい。彼女の背負う重荷を少しでも軽くしてやりたい。そう思いながらも、志貴はその方法が分からなかった。
考え込んでいるうちに、志貴は眠りについていた。眼を覚ましたのは、再び部屋を訪れた翡翠に起こされたときだった。
それから志貴は家での時間を過ごしたものの、秋葉の立腹の様子に困り果てていた。彼女は兄の行動が危険の伴うものと思って、心配のあまりに不機嫌になっていたのだ。
居心地の悪さと重い空気を感じながらも、志貴は休息を取ることにした。
そして夕暮れ時となり、空は赤みを帯びてきていた。夜になれば、また死徒たちが本能の赴くままに猛威を振るうだろう。
またアルクエイドやシエルもその事件に飛び込んでいくことにもなるだろう。思い立った志貴は部屋を出て、外に出ようとした。
「どこに行くというのですか、兄さん・・」
そこへ秋葉が声をかけ、志貴が足を止める。恐る恐る振り向くと、不機嫌さの中に慄然さを込めていた秋葉の姿があった。
「秋葉・・それは、その・・」
「無闇に外出するのは控えてください。どこまで私や琥珀、翡翠を心配させれば気が済むのですか?」
口ごもる志貴に、秋葉が憤りをあらわにする。その中でも平穏さを保っているように見えるが、今の彼女は何を仕出かすか分からないような戦慄を抱えていた。
「最近、この辺りで不可解な事件が続発するとも聞いています。その状況下で、兄さんを危険に飛び込ませるわけにはいきません。」
「秋葉・・・」
秋葉の思いを受けて、志貴は言葉を返すことができなかった。
「どうか私の気持ちを察してください。もうすぐ夕食の支度ができますので。」
秋葉の言葉に逆らうことができず、志貴はやむを得ず外出を控えることにした。
秋葉に連れられる形で、志貴は大広間に向かった。そこでは琥珀が夕食をテーブルに並べているところだった。
「お疲れ様です、秋葉様、志貴さん。今夜は志貴さんのことを考えて、栄養のあるものを取り揃えさせていただきました。」
「そう。ありがとう、琥珀。兄さん、今夜はしっかりと栄養をつけて、休養も取ってください。明日からまた学校ですから。」
笑顔で迎える琥珀に感謝して、秋葉が志貴に言いかける。
「ありがとう、琥珀さん。オレのためにここまでしてくれて・・」
「いいんですよ。秋葉様と志貴さんに尽くすのが、私たち姉妹の務めですから。」
同じく感謝の言葉をかける志貴に、琥珀が笑顔を崩さずに答える。
「さぁ、冷めないうちに召し上がってください。」
琥珀に促される形で、志貴と秋葉はそれぞれ席についた。様々な思いが心の中で錯綜するのを感じながら、志貴も料理に手をつけた。
「兄さん、新しい学校には慣れましたか?」
その夕食の最中、秋葉が唐突に志貴に問いかけてきた。
「あ、あぁ。知り合いがクラスの中にいて、そんなに緊張することもなかった・・」
「そうですか。それはよかったです。いじめなどにあっていないかと心配していましたから。」
「あのなぁ、秋葉。オレはもう子供じゃないんだから。秋葉は昔から心配性なんだから。」
「兄さんが軽率だからではないですか。兄さんはいつも軽はずみな行動が多いんですから。」
2人の会話はいつしか口げんかとなってしまった。2人のやり取りを見かねた琥珀が苦笑いを浮かべつつも口を挟む。
「まぁまぁ、2人とも。食事は楽しくしたほうがより美味しく感じますよ。」
琥珀の機転で口げんかは止まったものの、それから志貴と秋葉の会話はなく、重苦しい空気を感じて琥珀はただただ苦笑するしかなかった。
そんな空気のまま夕食が終わり、秋葉は志貴より先に大広間を後にした。食器を下げている琥珀に、志貴が声をかけた。
「ありがとう、琥珀さん。本当に美味しかったよ。」
「いいえ、感謝するのはこちらのほうです。ありがとうございます、志貴さん。」
志貴の言葉に琥珀が笑顔で答える。そこで翡翠が大広間に入り、2人に近づいてきた。
「姉さん、後は私がやっておきます。志貴様のお世話は私の役目ですから・・」
「いいのよ、翡翠ちゃん。食事の支度と後片付けは私の仕事だから。」
翡翠の申し出に対して、琥珀は笑顔を崩さずに答える。すると翡翠がいたたまれない心境に陥り、琥珀が気を遣う。
「ここは私に任せてください。翡翠ちゃんは志貴さんを部屋に連れてってあげて。」
「姉さん・・・分かりました。志貴様、こちらへ・・」
琥珀の気持ちを受けながら、翡翠は志貴を促す。志貴と翡翠はひとまず大広間を後にした。
「ところで、翡翠・・・」
「何でしょうか、志貴様?」
廊下の途中で、志貴が唐突に声をかけ、翡翠が顔色を変えずに答える。
「オレに“様”っていうのはやめてもらえないかな・・・?」
「なぜですか?メイドが主人に礼儀を尽くすのは当然のことですが。」
「それはもっともなんだけど・・オレは“様”を付けられるほど偉くないし、主人の器でもない。だからそんなに気を遣わなくてもいいんだ・・」
「それでも私は・・志貴様のために尽くすだけですから・・・」
志貴の申し出に対し、翡翠は思いつめた様子を見せる。少し困惑しながらも、志貴は翡翠に言いかける。
「昔みたいに“志貴ちゃん”って呼んでもいいよ。せめて“志貴さん”でお願いしたい。」
志貴の言葉を耳にして、翡翠は返事ができなかった。2人はかつての幼馴染の関係でもあるのだ。
翡翠が返事をしないまま、2人は志貴の部屋の前にたどり着いていた。
「とにかく翡翠、あまりムリしないほうがいいよ・・って、オレが言えた義理でもないんだけど・・」
「ご心配には及びません。志貴様のお世話をするのが、私の役目ですから。」
あくまで考えを変えようとしない翡翠に、志貴は落胆の面持ちを浮かべていた。
「ちょっとあなたたち、そこで何をしているのですか?」
そのとき、秋葉が志貴と翡翠の前に顔を見せてきた。
「いや、秋葉、これは・・・」
志貴が弁解を入れようとしたとき、秋葉の顔色がおかしいことに気づく。彼女の頬が赤くなっていたのだ。
「秋葉、どうしたんだ!?顔が赤いぞ!」
「何でもありませんわ。こんなのいつものことです。」
「いつものことって・・お前、何をやって・・!?」
平然そうに振舞っている秋葉に歩み寄る志貴。すると彼は彼女から奇妙な空気が流れてくるのを感じる。
「お酒、くさい・・・」
たまらず後ずさりする志貴。秋葉はワインを口にしていたのだ。
秋葉は未成年であるにも関わらず、屋敷内で堂々と飲酒している。しかもかなり飲んでいても顔が赤くなる程度。洋風ワインが好みで、ブランドにも詳しい。
「秋葉様、またワインを口にしているのですか?」
翡翠はこのことを知っているのか、顔色を変えずに秋葉に声をかける。すると秋葉は2人に向けて妖しい笑みを見せていた。
そのとき、玄関のインターホンが鳴り、3人がそのほうへ振り向く。
「誰ですか、こんな時間に?」
「私が出ます。志貴様と秋葉様はお休みになっていてください。」
眉をひそめる秋葉を制して、翡翠が玄関に向かう。志貴も秋葉を気がかりにするも、渋々玄関に向かった。
翡翠が玄関の扉を開けると、金髪の女性が気さくな笑みを浮かべてきた。
「やっほー♪」
女性が声をかけるが、翡翠は顔色を変えない。
「どちら様ですか?ここは遠野家の邸宅ですが。」
「遠野?ふーん・・もしかして、ここって志貴の家じゃないの?」
「あの、失礼ではないですか、いきなり。志貴様に何の御用ですか?」
遠慮なしに言いかけてくる女性に、顔色を変えないながらも、翡翠は不快感を募らせていた。そこへ志貴が玄関に姿を見せ、その女性を眼にする。
「お、お前・・アルクエイド・・!?」
「やっほー♪やっぱりここにいたんだね、志貴。」
驚きを見せる志貴に、アルクエイドが気さくに挨拶をかける。
「どうしたのよ、志貴?今夜は街に出てこないの?」
「何言ってるんだよ、アルクエイド。オレはお前とは関わりを持ちたくないんだ。おかげで秋葉や翡翠たちにまで心配されてるんだぞ。」
志貴の言葉を聞いて、アルクエイドが翡翠に眼を向ける。すると妖しい笑みを浮かべて何度も小さく頷いてみせる。
「どうしたのですか、翡翠、兄さん?」
そこへ酔いの覚めていない秋葉が顔を出してきた。アルクエイドが彼女に気づいて、再び気さくな笑みを見せる。
「兄さん、誰ですか、この人は・・・!?」
秋葉がアルクエイドを眼にして、志貴に問いかける。秋葉は志貴がやましいものを抱えていると思っていた。
「へぇ、アンタ、志貴の妹さんなんだぁ。」
「・・いくら兄さんの知り合いだからって、私に馴れ馴れしくしないでもらえます?」
「お、おい、秋葉・・」
気さくさを見せるアルクエイドと、彼女の態度に不快感を覚える秋葉。2人のやり取りを気まずく感じて志貴が呼び止めようとするが、2人の険悪さは治まらない。
「もしかしてアンタ、お酒飲んでるの?ずい分大胆な妹さんねぇ。」
「洋酒をバカにしてはいけませんよ。あなたの言葉、まるで自分がお酒が飲めないという言葉ですわね。」
秋葉が妖しく微笑みながらかけた言葉に、アルクエイドが笑みを消した。
「誰がお酒が飲めないって言ったのよ。アンタみたいなのが飲めるんだから、そんな大したものじゃなさそうね。」
「言いましたわね。ではあなたの舌、確かめさせてもらいますよ。」
ついにアルクエイドと秋葉の対立は、お酒を交える争いへと発展してしまった。
「何でこんなことになってしまうんだ・・・」
「お酒の飲まれた秋葉様には、お酒の悪口はご法度なんです。こうなってしまってはもう止まりませんよ。」
頭を抱える志貴に、琥珀が声をかけてきた。
「しかしアルクエイドまで巻き込んで・・本当に大丈夫なのか・・・?」
「心配は要りません。秋葉様より酔いつぶれない人なんて数えるほどしかいませんから。」
志貴の心配に琥珀は笑顔で答える。彼女の返事と笑顔が、逆に志貴に不安を膨らませていた。
「あ、あの・・」
そこへ声をかけられ、志貴が振り返る。そこには制服姿のシエルが笑顔を見せていた。
「シエル先輩・・?」
「疲れていたようなので心配になってたのですが・・どうやらそんなに気にすることはなかったようですね。」
戸惑いを見せる志貴に、シエルは笑顔を崩さずに答える。
「あの、志貴さん、この方も志貴さんのお知り合いですか・・?」
「あ、え、えぇ。学校の先輩で・・」
「シエルです。よろしくお願いします。」
琥珀の質問に志貴が答え、シエルが挨拶をする。そこでシエルの笑顔が消える。彼女の眼に、秋葉と口論しているアルクエイドの姿が飛び込んできたのだ。
「遠野くん、これはどういうことなのですか?・・なぜアルクエイドがここに・・」
「いや、先輩、アイツが勝手にここに来て・・・」
不審そうに問いかけてくるシエルに、志貴が必死の思いで弁解しようとする。だがシエルは彼を素通りして、アルクエイドに詰め寄った。
「ここで何をしているのですか、アルクエイド?」
「えっ?シエル?アンタこそここで何をしてるのよ?」
慄然と問い詰めてくるシエルに、アルクエイドが驚きを覚えながら問い返す。
「私は遠野くんは心配で・・あなたは何ですか?その様子では、とても遠野くんの心配をしに来たとは思えませんが。」
「アンタには関係のないことよ。いい加減アンタの顔を見るのもウンザリしてきたわね。」
口論を始めだしたシエルとアルクエイドに対して、秋葉がついに痺れを切らした。
「あなたたち、ここは私たちの家ですよ!人の家に上がりこんで、人の迷惑も顧みず・・!」
口を挟んできた秋葉の様子を見て、シエルも眉をひそめた。
「あなた、もしかしてお酒を・・・」
「屋敷の中だけですけど・・未成年ですけど、もう慣れてしまいました。」
不審そうに問いかけるシエルに、秋葉は妖しく微笑みかける。
「ちょっと妹さんのお酒にあやかろうと思うの。だけどカレー好きのアンタには無縁の話じゃないの?」
「いいましたね。私も時々ではありますが、カレーと一緒にワインをいただくことがあるんですよ。」
シエルが自信を見せているように思えて、アルクエイドも触発される。こうしてお酒を交えての三つ巴の争いが始まろうとしていた。
3人は秋葉の部屋を訪れた。そこで秋葉は先ほど飲んでいたものと同じ赤ワインを取り出し、アルクエイドとシエルに見せた。
「私はよくこのワインを口にしています。飲めると豪語するなら、このくらい平気でしょう。」
秋葉が見せたワインのビンを手に取り、アルクエイドがいろいろな角度から見回す。
「なるほど。いいでしょう。これまで多くのカレーを口にしてきた私の味覚、特とご覧になってください。」
「カレーは関係ないって・・」
意気込みを見せるシエルにツッコミ入れるアルクエイド。3人のやり取りを部屋のドアの影から見つめて、志貴が不安を募らせていた。
「本当に大丈夫なのか、あの3人・・・?」
「心配しなくても大丈夫ですよ、志貴さん。それでは私は注ぎに行ってきます。」
志貴に言いかけると、琥珀は笑顔を崩さずに部屋に入っていった。テーブル席に着席した3人の前にあるワイングラスに、琥珀は赤ワインを注いでいった。
秋葉はそのグラスを手に取るとゆっくりと揺らし、そのなめらかさを確かめる。さらに香りを確かめ、そこからワインを一口にして味を確かめる。
シエルも同様にして、視覚、嗅覚、味覚でワインを楽しむ。しかしアルクエイドはすんなりとグラスのワインを飲み干してしまった。
「うーん、いいんだけど、ちょっと物足りないかなぁ。」
「あなたはワインを楽しむためのマナーがなっていないようですね。そんな粗野な飲み方をしてはいけません。」
不満そうな面持ちを見せるアルクエイドに、秋葉が注意を促す。だがアルクエイドは気に留めていない様子だった。
「いいじゃないの。楽しむことに何のマナーがあるっていうのよ。」
「仕方ありませんよ。彼女は本当に横暴なひとですから。」
そこへシエルが口を挟み、アルクエイドが彼女に不満を向ける。
「カレー好きのあなたに文句を言われる筋合いはないわね。やっぱりお酒は楽しく飲まないと。」
「楽しむためのマナー、ルールなのです。それを無視しては、本当に楽しむことなどできませんよ。」
「何よ、マナーやらルールやら。そういうのを気にしてたら、ホントに何にも楽しめなくなっちゃうじゃないの。」
「あなたのは楽しんでいるのではなく、いい加減なのです。それでは他の人の楽しみまで害してしまいますよ。」
再び口論するアルクエイドとシエル。
「あなたたち、私は十分に楽しみを害しているのですが。」
そこへ秋葉が憮然とした態度で2人を注意する。
「もうっ!お酒っていうのは勢いが大事なのよ!」
突然怒り出したアルクエイドが、琥珀の手にしていたワインのビンをつかむと栓を開けて、グラスに入れずにそのまま飲み始めた。
「あ、あの、そんな飲み方をされては・・」
琥珀が呼び止めようとするが、アルクエイドはそのワインを完全に飲み干してしまった。大きく息を吐く彼女の顔は、酒を入れたことで真っ赤になっていた。
「ほーらー♪やっぱり楽しくしなきゃ損だよー♪」
力のない笑顔を周囲に振りまくアルクエイド。今の彼女は完全に泥酔していた。
「全く。一気飲みなどして、そんな風にハレンチになるまで酔ってしまって・・」
「妹ちゃんもそんなに顔を強張らせてないでさー♪ほれっ♪」
呆れている秋葉に、アルクエイドがワインを無理矢理飲ませる。琥珀がたまらず止めようとするが、秋葉は既に大量のお酒が入っていた。
「あなたという人は、アルクエイド・・」
「アンタもいつまでも我慢してないで、たくさん飲んじゃったら?それとももう限界とか?」
「な、何を言っているのですか、あなたは・・私はまだまだ十分飲めますよ。」
こうしてシエルもアルクエイドの挑発に乗り、ワインを飲みだした。どんどんワインが彼女たちの中に納まり、それに比例して酔いの度合いが大きくなっていく。
加速化する崩壊を目の当たりにして、志貴は呆れ果てて見かねて、部屋を後にした。
それから数十分後、アルクエイド、シエルは完全に酔いつぶれた。気絶するように倒れて動かなくなった2人を見下ろして、秋葉は妖しく微笑んでいた。
「もうおしまいですの?やはり、私にお酒で張り合おうなんて10年早かったということですわね。」
秋葉は勝ち誇ると、琥珀に連れられて部屋へと戻った。アルクエイドとシエルも、琥珀と翡翠の介抱を受けて、意識がもうろうとした状態のまま遠野家を後にした。
こうして、遠野家を舞台として、お酒を交えた聖戦は幕を閉じた。